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第1章 邂逅 5/5

last update Last Updated: 2025-04-28 11:00:48

 湯船につかりながら、柚希〈ゆずき〉は紅音〈あかね〉のことを考えていた。

 ここに越してから、柚希は基本、食事と風呂を小倉家で済ませている。

 初めの頃は、自分の家があり生活があるからと拒んでいたのだが、早苗〈さなえ〉の勢いに流される回数が徐々に増えていき、いつの間にかこれが日常になっていた。

「綺麗な人、だったな……紅音さん……」

 小さく笑う紅音を思い出すと、自然と口元が緩んだ。

 * * *

 柚希はこれまで、身近な女性を意識したことがなかった。

 清楚で無垢、そして自分を包み込んでくれる存在。それが柚希の求める女性像だった。

 それは幼い頃に事故で亡くした、大好きだった母親への想いに重ねられているとも言えた。

 どこにいても浮いた存在で、常にいじめの対象だった彼に興味を持つ女性もいなかったが、彼自身、劣等感を持つこともなかった。

 彼の理想の女性像を、同世代に求めることが出来ないと分かっていたからだ。

 しかし紅音は、その理想を求めるに足る初めての女性だった。

 勿論彼女のことを、まだ何も知らない。

 しかし彼女の姿を思い描き、仕草を思い返すと、彼の胸は高鳴った。

 湯船から出た柚希は、椅子に座り体を洗い出した。

 毎日のように受ける暴力で、体のあちこちは傷ついていた。

 いつもは痛くならないように、慎重に慎重に洗っていた。

 しかし今日、本当に久しぶりに。痛みを気にせず洗うことが出来た。

 それが嬉しかった。

 その時、突然ドアが開いた。

「柚希―、湯加減どう?」

 短パンにティーシャツ姿の早苗だった。

「うわっ!」

 柚希は反射的に湯船に飛び込んだ。

「早苗ちゃん、いつも言ってるだろ。いきなりドアを開けないでって」

「あははははっ、別にいいじゃない。私にとっては柚希も昇〈のぼる〉も、可愛い可愛い弟なんだからさ。これぐらいで騒がないの」

「いい訳ないから」

「おー、思春期思春期、あはははっ……でさ、柚希」

「……まず向こう向いてよ」

「うん……あのさぁ柚希。あんた放課後、山崎たちといたじゃない? 今日も帰り遅かったし、ひょっとしてあんた、あいつらに何かされてない?」

「……」

「私、これでもクラス委員じゃない? クラスでの揉め事やトラブルには、きちんと手を打ちたいんだ。女子に聞いたらね、その……あんたが山崎たちに……手を出されてるとかって」

「……大丈夫だよ」

「ほんとに?」

「転校してきたばかりでまだ馴染めてないけど、でもいじめられたりしてないから。今日は本当に小川に行ってたんだ。いいところだよね、あそこ。次の休みに、カメラ持ってまた行くつもりなんだ」

「本当? 本当に? 柚希、私は柚希のお父さんから、あんたのこと頼まれてるんだからね。隠さずに話してよ」

「ありがとう。でも本当、大丈夫だから。それに山崎くんたちには……ちょっとからかわれたりする時もあるけど、いじめられてるとかじゃないから。だから早苗ちゃん、心配してくれてありがとう。大丈夫だよ」

「……分かった。柚希がそう言うなら信じる。この話は終わり! それじゃあ柚希、背中流してあげるね」

「あの、その……早苗ちゃん。僕にとっては、そっちの方がいじめなんですけど」

「失礼なこと言うね。これでも私、男子からそこそこ人気あるんだからね。その私に背中流してもらうなんて、これ以上にないご褒美だよ?」

「ははっ、かもね。でも遠慮しておくよ」

「そう? 後悔しない?」

「しないしない」

「あはははっ。じゃあ柚希、カルピス作っておくからね。上がったら飲むんだよ」

「うん、ありがとう」

 早苗が陽気に笑い、ドアを閉めていった。

 早苗の気配が消えたのを確認して、湯船から出ると再び体を洗い出す。

 この早苗の強引さにいつも振り回されているが、彼女の自分に対する気配りには感謝していた。

 学校でも、いつも気を使ってくれている。

 そのことで、男子から嫉妬の目で見られることもあった。早苗がさっき口にした山崎たちにしても、いじめられるきっかけは嫉妬だったと柚希は理解していた。

 しかしそれで、早苗に嫌な感情を持つことはなかった。

 父、誠治との約束を守り、心細かった見知らぬ土地での生活を支えてくれる早苗は、柚希にとってかけがえのない存在だった。

 風呂から上がると、テーブルにはカルピスが置いてあった。

 柚希の好み通り、氷が三つとストローが差してある。

 柚希は小さく「いただきます」とつぶやき、ストローを口にした。

 * * *

 布団に寝転び、天井を見つめる。

 今日は色々あった。

 また明日も、山崎たちからの陰湿ないじめが待っている。

 そのことを考えると、少し憂鬱になった。

 明日はどんないやがらせが待ってるんだろう。

 いつもはそのことで頭がいっぱいになり、眠れぬ夜を過ごしていた。

 しかしこの日は違っていた。

 いつの間にか、柚希の頭の中は紅音〈あかね〉でいっぱいになっていた。

 赤く大きな瞳、透き通るような白い肌。美しい銀髪。

 間近で感じた甘い吐息、優しい声。

 柚希の胸がまた高鳴っていった。

「また明日、会えるんだ……紅音さん……」

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